焚書坑儒と文化大革命の国で・・・2

2006/03/11 14:27


引き続き、袁偉時氏の論文の第二章をアップします。
やっと・・・
やっと第二章・・・・
未だ三章と四章が残っています。
(多分誰も読まないけど、意地ですな・・・)

第二章は義和団事件についての教科書の記述です。


  それは愛国の壮挙だったのか、それとも文明に悖る行為だったのか?


 引き続き 教科書の作者の義和団事件に対する記述を見ることにする。


 教科書の記述を正確に引用してみよう。“八カ国連合軍が北京を占領した後、放火・殺人・横領・略奪など、あらゆる悪行を働いた。”“八カ国連合軍が天津に侵攻すると・・・(ロシアは)世間をぞっとさせる海蘭泡の大虐殺事件を起こした。ロシア国軍は更に中国江東の六十四部落を占拠し、残酷にも土地の住民を虐殺した。”それ以外の記述も間違いの連篇としか言い様がない。



   一.教科書では ただの一文字も、義和団が現代文明を敵視し盲目的に外国人と外来の文化を排斥した、極端に愚昧な行為について触れていない。
 義和団は電線を壊し、学校を壊し、鉄路を破壊し、西洋のものを燃やし、西洋人を殺し、外国人や外国文化と関係を持った中国人までもを殺した・・・ほんの少しでも西洋文化に触れた物も人もすべからく、徹底的に消滅させた。たとえ義和団が本当に“扶清滅洋”の偉大な勲功を打ち立てたとしても、彼らが犯した反文明・反人類的な過失は否定することが出来ない。ましてこれら罪悪の振舞いが国家と人民にもたらした莫大な災難を否定することは!これらは全て周知の史実であり、中国人が忘れてはならない国辱である。しかし我々の子供たちが必ず目を通す教科書では あくまでも そのことについて口を閉ざしている。


 教科書でも鉄道の破壊については言及している。どのように書いているのだろうか?“1900年6月・・・・八カ国の侵略軍2000人余がイギリス海軍指令:西摩尓の指揮で、大沽から天津を経、北京へ向かって進軍していた。義和団は天津から北京へ至る鉄道を破壊し、侵略軍を阻止しようと試みた。侵略軍は廊坊一帯で義和団に包囲され、多数の死傷者を出し、あわてて天津へと逃げ帰った。”この文章を見ると、鉄道の破壊と言う行為は侵略者に抵抗する為やむなく取られた措置であるように感じられる。実際の状況はどうだったのか?


 1900年5月28日、直隷総督裕禄が各国実務部門に打電した。“29日夜(5月27日)〓州から琉璃河に渡る一帯で突然武装盗賊が蜂起し、鉄道を破壊し、今朝 琉璃河から長辛店に至る百余里の鉄道沿線の駅・橋梁並びに一部西洋建築などを全て焼いた。”同じ頃、各地から入り乱れて急を告げる報告があった:“目下、電線が遮断されている・・・・・長辛店まで断線、琉璃川から〓州に至る電線が盗賊によって切断された。全ての電力が遮断されている。”彼らの破壊行為は完全に外来物に対する敵視から来ており、侵略者に抵抗する為にやむなく採られた応急措置ではなかった。同時にこの種の行為は各地に飛び火した。もはや局地的に偶発した現象ではなくなったのである。つまり、これは下心があって財産を破壊する罪行であり、一部の歴史家が言うような侵略者への抵抗の勲功ではなかったのだ。時間軸上において考えると,連合軍が出撃しその後天津から撤退するまでは6月10日から26日の間の出来事である。しかし鉄道の破壊・電線の切断・駅への放火・財産の略奪などの急報が続々届けられたのはそれ以前のことであった。義和団の放火略奪が前で、八カ国連合軍の出撃が後なのである。この順序は歴史的事実であり、誰もそれを変えることは出来ないし 変えるべきではない。



  二.教科書では新政府の高官や義和団が無辜の民を虐殺し、放火・略奪した野蛮で残忍な罪業を譴責することもない。

 
 最も代表的なのは山西の巡撫:毓賢の行為である。6月初一(6月27日)、彼は太原にある西洋人の営む医院に放火、同時に“省内の西洋人をすべて引越しさせて一所に集めた。当時の調べでは教会内には婦女211人、老人数人も居たが、5〜6歳・10代前半から2~30歳までの者が多数を占めた・・・6月13日、顔色一つ変えることもなく自ら兵士を指揮して包囲し、捕縛した。西洋人の中にも敢えて抵抗するものがあり、悪人の手先が勇敢な数人を指図して死の危険を冒して突進させた。西洋人の老若男女44名、悪人と助け合っていた教徒17名を一斉に捕らえた。捕らえた者は即座に縛り上げられて市役所へ連行し、直ぐに死刑が執行された。”“寿陽県の秦錫圭は面倒を起こした西洋人7名を捕らえ、護送して来て、直立不動で一まとめに規則どおりの刑罰を受けさせた。当日の夜、北門の教会は暴徒の放火に遭い、省城内の西洋人教会は跡形もなくなった。”当時の新聞では以下のような報道もなされている:“晋に住む西洋人は 国都を消耗していることを知っていた。彼らは毓賢に保護を求めた。しかし事もあろうに、結果は誘い込まれて集められ ほぼ非武装の状態で殲滅されたのだ。”


 毓賢のような行動は彼一人に限ったものではない。進取的なものを快く思わない 全ての頑固分子が―伝統文化の中でも思想的に最も遅れた、野蛮な精神の継承者である官僚が―機に乗じて悪事の限りを働いた例は枚挙に暇がない。たとえば輔国公:載瀾である。彼は載稃と共に京津義和団の皇帝に仕え、その暴虐は毓賢にも引けをとらなかった:“国都が乱れると、載瀾は匪賊に加わって 民家へ押し入り、あら捜しをして毛氈やその他の品を持ち帰った。民に教育を施す者も皆 捕まって殺され、たとえ皇帝の大臣であろうともその災禍から逃れる事はできなかった。”


 義和団の所業について もう一度考察してみよう。前人が当時から指摘している通り、義和団に参加している民衆の全てを匪賊とみなすことは出来ない。その構成員はただ盲従するだけの愚民がほとんどだった。しかしその中には、けして少なくはない数の悪徳軍人やならず者が確実に含まれていた。義和団事件を総括すると、 1900年6月24日〜7月24日の期間、全国各地で殺害された外国人が231名。その内幼い子供が53名を占める。彼らの保護者もすべて義和団の手によって殺害されている。中国のキリスト教徒やいわゆる“二毛子”は更に数え・記録しきれないほど多くが殺害された。義和団によって殺害されたものがほとんどであるが、官兵もその一部を殺害している。山西の一省だけで 中国キリスト教徒が5700名以上殺害されている。奉天(遼寧)全省で“教徒の人名千余り”。“直隷(河北)全省で起きた殺人・放火の事件は殆ど全県で発生している。その殺人が多く発生した県では、一県でなんと1000〜2000名が殺害されている。”浙江ですら“強奪・放火の被害に遇った教徒が1000余”と伝えられている。


 “被害が最も大きかった”北京では、当時の知識人が 少なくない実録を残している:1900年6月18日“街では放火の炎が連日連夜光っている・・・・平素から快く思っていなかった相手をキリスト教徒に仕立て上げて、一家惨殺する例があり、死者は十数万人に上る。刀や矛で滅多突き、人体はバラバラにされ、生後一ヶ月に満たない嬰児すら残酷にも殺された。復讐を恐れるが故である。” “フランス系キリスト教会が西安門内にあった。剛相(剛毅)が兵を率いてこれを攻めたが、門を破ることが出来なかった。兵たちは無理には侵入しようとせず、門前で騒ぎ立てるだけであった。武装匪賊はその目的を達することが出来ず、後の策もなかった為、騒ぐだけ騒いで永定門から逃れた。村民70余名を定期市に集め、ことごとく縛り上げてから、俳優の官服を着せて児童劇団を装わせ、これらは白蓮教(秘密結社)であると指摘した。刑部へ一晩送り込んだ後、指示も下されないままに西市に全員を並べて切り捨てた。もしその男に婦人が居れば、わざわざ家からその処刑場へ連れ出し、もろともに処刑した。婦人は子供を抱いたままだったと言う・・・・・毓鼎はこれについて上奏して以下のように述べている:‘混乱を引き起こそうと図るものには拠り所があり、老人・婦人などの弱者・乱に加わらないものに害を及ぼしています:・・・・・・(略)’上奏し、牢獄を準備した。”


 6月16日“それは九時ごろだったか。匪賊の一団が (西洋医薬の)薬局に火をかけ、その火が食料品店に延焼、灯市街・観音寺・珠宝市・・・合計で4000余の建物を焼き、夜明けになっても未だ燃え続けた。匪賊が民間の消防隊の消火活動を妨害した為である。”この国都で最もにぎやかだった地区は一朝で焼き尽くされた。まとめてみれば、“国都の最盛期には住民人口が大体400万あった。匪賊暴軍の乱より後、これに乗じて盗賊が横行し、その略奪を逃れ得るものは無かった。市場は閑散としており、昼間から狐が出て、これらとぶつかり合いながら行くと さながら廃墟と墓の中を歩いているようである。”これが所謂義和団の“革命”の成果の一つである。


 当初、民衆と宣教師・キリスト教徒との摩擦は同情するべきものであった。しかし、彼らが後にとった行為は外来宗教との摩擦などという一線をはるかに超えてしまった。事件の発生から民国元年に至るまで、朝野各界でこの組織が武装盗賊と判断されてきたことは十分な根拠のあることだったのである。





  三.教科書が慈禧*1専制と暴虐が引き起こした大きな禍に一言も触れないのは何故か?


 義和団出現当初に 袁世凱は下記の通り上奏している“それに惑わされた者は 鉄砲を除けることが出来ると称している。しかしひとたび地元自衛団・キリスト教徒・兵隊などと戦端を開き、発砲を受けると あっという間に多くが死傷し、集団は瓦解しこそこそと逃走する・・・その集団に籍を置いて活動するものは キリスト教の壊滅を図るのだと称する。しかし昨年春夏の間に、曹州の済寧各地方ではキリスト教徒の家1100軒余をことごとく掠奪し、同時に一般人の家200余からも略奪を犯した。秋冬間には東陽・済南各地で教徒600軒余、一般人 100軒余から略奪を繰り返した。その内多くの事件で人を拉致して売り捌いており、盗賊となんら変わるところがない。キリスト教徒はもちろん、一般の国民も多くがその禍を被っている。”その上、袁世凱よりも地位の高い数人の大臣(北洋大臣・直隷総督裕禄など)も類似の意見を提出している。しかし慈禧は耳をふさいで聞こうとせず、比較的冷静な大多数の大臣は口をつぐむほかなかった。品性の良くない輩は 上にへつらい機嫌をとって 寵愛に乗じて国政の舵を取った(裕禄など)。


 その六年前には “敢えて格上に楯突いた”“小さな島国”の一国であった日本ですら防ぎとめることが出来なかった弱国が、日本を含む11国に対して同時に宣戦布告しようとは!《国際法》が中国に浸透して60年を経て、尚 兵士を派遣して駐中大使館を包囲させるようなことがあろうとは!


 和平か戦争かの大きな決定を下すために、1900年6月16日から慈禧は四日連続で王公大臣六部九卿を召集して御前会議を開いた。吏部侍郎景澄・兵部尚書徐用儀・戸部尚書立山・内閣学士聯元などの人物が相次いで「邪法を信用してはいけない、公使館を包囲してはならない、外国に対してこちらから宣戦布告してはならない。」と提言した。各国の事務部門を掌る大臣袁昶と景澄の両名が連名で奏上した文章には以下のくだりがある。“春秋の義に則れば、両国が戦闘状態でも一般人は殺戮しないといいます。ヨーロッパの法では その公使は国の重臣であり、公使を蔑視したということはすなわちその国を蔑視したことになります。もし慈禧様があの盗賊に公使館を攻め滅ぼさせ官吏を皆殺しにさせるならば、各国はそれを国辱と捉え、一致団結して死に至る報復を実行することでしょう・・・・・たった一国で各国を敵に回せば、臣が愚考しますにただ勝敗が決するだけではなく、我が国の存亡が懸かった戦争となりましょう。” 慈禧は彼らのあまりにも簡明で常識的な意見を退けたのみならず、専制暴虐の大権を揮って 彼らを打ち首に処した。


 敏賢の西洋人殺害などの罪行は、殆ど 6月21日の各国への宣戦布告の詔/6月24日各省督撫への西洋人殺害命令の後に起きたものだということを 同時に述べておこう。首犯は慈禧・敏賢・載〓などの凶悪・残忍な執行者であった。





  四.教科書に引用される史料も全く信用ならない
 “義和団山東で生まれ、三ヶ月もしない内に地は一面紅に染まった。子供らが武器を持ち、護国の英雄として振舞った。”教科書では欄外にこの歌を掲載している。“義和団歌謡”である。しかし筆者は寡聞にして、これまで目を通した 現存する義和団の宣伝ビラや張り紙などの資料の中からこの歌の根拠となる史料を見つけられていない。後になって調査・蒐集される 所謂口頭伝承というものは、往々にして後人が手を加えたり 創造したものであるため、根拠としての価値は全くない。


 教科書にはまた 下記の記述もある;“北京東単の西〓胡同には于謙廟がある。于謙の愛国精神を学ぶ為に、1900年4月 義和団が入城した後ここに神壇を設置した。”一切の学術的観点を排除した このこじつけ的付会には、十分に反駁の余地がある。載〓・載瀾など人民と国家に禍を及ぼした清・満州民族の権力者や貴族たちは皆 敷地内に義和団の神壇を設けていた。これは一体義和団に何を学ぼうという意図だったのか?


 我が国では これまで記した人民教育出版社の教科書以外にも、もう一冊 選択の余地がある。沿海地区の教材である。沿海版という名称で、地方史実の捻じ曲げが更に甚だしく、善悪の観念が更にでたらめになってしまっている。


 たとえば、義和団事件に関する記述である。そこには更に以下の話が加筆されている。“6月中旬以降、義和団の群集は侵略者の拠点である西甚庫教会と外国公使館地区を包囲した。清政府は こっそりと人を派遣し、包囲されている侵略者に 裏から糧食・野菜・酒・果物などを差し入れ、見舞った。”この一字一句 全てがでっち上げであり、でたらめである!


 先ず問い直さなくてはならないのは、西甚庫教会は“侵略者の拠点”であったのか?という事だ。義和団事件が起きる前はそこはただのフランス系キリスト教会であった。そこを“侵略者の拠点”と証明できる十分な証拠は何もないのだ。義和団事件の間、1900年6月13日からの数日間で北京にある教会と洋館の大部分が灰燼に帰した。その上数千棟もの民家及び商店が 巻き込まれて延焼したのである。未だ無事だった西甚庫教会や東交民巷使館には逃げ延びた外国人と中国人のキリスト教徒が集まっていた。この教会に逃げ込んだ者達は 清政府が正常な社会秩序を維持できないでいる中で、虐殺に抵抗し自衛していただけであり、それを非難する理由は何もない。この 教会が“侵略者の拠点”であるという放言は 全くの口からでまかせだったのである。


 次に東交民巷を包囲・攻撃したのは慈禧の指示である。主力は董福祥の甘軍と栄禄の武衛中軍であり、それは正規軍が犯した犯行であった。義和団は悪人の手助けをしたに過ぎない。沿海版教科書のあいまいな記述は この事件を義和団が自発的に起こした愛国の義挙であると思わせ、歴史の真相を歪曲したに止まらず、清政府が国際法を踏み躙った罪業を隠蔽するものである。もう一度言うが、西甚庫教会及び公使館区への侵攻は専制統治者の極端に愚昧で無知な残虐行為を十分に表す具体例である。時は既に20世紀90年代に入っているにもかかわらず、依然として正面から国際法への無知を肯定するようなこの記述は、既に国辱の称揚と成り果てているといえる。同時に“封建専制への反対”の責任を忘れているともいえるだろう。


 教科書の引用をもう一度みて頂きたい。清政府は確かに人をやって包囲されている外国公使館に生活必需品を届けさせており、これは政府の詔を奉じた正式な職務であった。文中には“こっそり”とあるがこれは根拠のない記述である。当時清政府内でも比較的冷静な大臣が再三に渡って、国際慣例に従って外国の外交官と外国人を保護するべきであると上奏していた。東南各省の督撫も「6月21日に発令された宣戦の“偽詔”には決して従わない」との強硬な態度で臨んでいた。これらの圧力に圧された慈禧は、もともと気が弱かったこともあり、“挽回”の余地を残しておこうとこのような政策を採るほか無かった。虚実は定まらないが、清政府内部の理性が未だ完全には消滅していないという証であったろう。つまりこの教科書で義和団の行いとして挙げている事件は 本当は義和団の仕業ではなく、この件に限っては濡れ衣といえる。


 義和団事件と八国連合軍について比較的大局を記述しているのが 同様に香港の教科書である。その中では義和団を非難して以下のように述べている。“躍起になって外国のものを排斥した。牧師を殺しキリスト教徒を殺し、洋書を所蔵しているもの・眼鏡をかけているものにまで手をかけた。その上至る所で破壊活動を繰り返した。教会を焼き、電線を切り、鉄道を破壊した。”“日本公使館書記の杉山彬、ドイツ公使の克林徳が前後して殺害された”一方で:“当時の連合軍の規律は乱れており、好き勝手に破壊・略奪・虐殺を行った。その内でもロシア・ドイツ両国軍とイギリスのインド駐在軍がもっとも残虐であった。”と記述している。また、義和団の発生した背景を細かく分析し:1.民族意識/2.生活難/3.列強による侵略/4.キリスト教徒との摩擦の頻発・・としている。更に 辛丑条約の内容とその条約が当時とその後の中国に及ぼした深刻な影響についても全面的に論述している。偏見を持たない人ならば皆、この教科書中に記述されていることが真実の歴史であると認めざるを得ないであろう。

*1:咸豊帝の皇貴妃