焚書坑儒と文化大革命の国で・・・

2006/03/06 10:39


中国紙「氷点週刊」1カ月ぶり復刊 言論統制強化の前兆
(↑産経新聞の記事です)


最近、
YahooやGoogleなどのサーチエンジンが中国政府の反体制あぶり出しに協力したとして
非難された事件がありました。


・・・ビックリ!!しました。



外資までが中国共産党に媚びなければ、
中国国内情報業界では生き残れない・・という現状の中
中国では報道と大多数の住民の実情が 実はあまり一致しないと言う事を
大前提として心においておいて欲しい。


また、その中でも 少しずつ
共産党の情報操作に左右されずに 自分で真実を探そうとする動きもあることを
理解して欲しい。


・・・と
最近の日中関係悪化(との報道)を聞いて、私的には思っていたのですが。



その矢先に、
中国の新聞界で
共産党の意にそぐわない論文を乗せた《氷点》という週刊の付録新聞が
廃刊に追い込まれる・・という事件がありました。


・・・ちょっと前ですが。


《氷点》とは《中国青年報》という新聞の付録として、毎週水に発行される小冊子です。


その論文を訳して掲載しちゃおうとたくらみ、
記事本文を全てコピーしたまでは良かったのですが



「論文」だけに・・・・長い長い長い長い・・・・しかも難しい!!


訳しても訳しても終わりが見えません(゜_ ゜;)


と言うわけで、ダラダラしている内に、《氷点》の廃刊問題が片付いてしまいました。




上記産経の記事を参照してもらえれば、わかるのですが
『問題となった論文の完全否定』と引き替えでの復刊です・・・





なんだか「あ〜あ!」って感じ。


仕方ないですが。





そんな訳ですっかり旬を逃したこの論文。


しかも未だ半分しか訳せていませんが


一応私の汗と涙とキーボードダコの結晶ですので、
少しずつアップしようと思います。




とりあえず一章を。




いつもどおり、完全な翻訳とはとても恥ずかしくていえませんが
是非雰囲気で読んでください。

残りは出来次第【2】としてUPします。



 冰点特稿第574期
  現代化と歴史教科書
  2006年1月11日
  中山大学教授;袁偉時


 21席の中国人は「従順なものは栄え、反抗的なものは苦しむ」と言う全国的な趨勢に対面している。同時に、今この時が中国の現代化事業のキーポイントとなる。この年代で公民と国家の発展の成否の鍵を握る最重要案件は制度環境である。しかし公民の見識及び心理状態が自己ないし国家社会の発展に及ぼす影響も無視できない。


 20世紀70年代末、反右派・大躍進・文化革命の三大災難を経て、人々は悲しみの中で彼ら災難の根源は何であるか悟ったはずだ―“我々は狼の乳を飲んで育ったのだ”と。20数年が過ぎ、偶然我が国の中学歴史教科書に目を通す機会をもった私は、吃驚仰天した。“我が国の青少年は未だ狼の乳を飲まされ続けているのか!”


 “史を以って鑑と為す”“前事を忘れざるは後事の師なり”とは中国人の耳に慣れ親しんだ名言である。屈辱・挫折・続けざまの兵禍・先人の屍を乗り越えた中国の一部近代史がどれほどの血涙と教訓を潜ませていることか!我々には歴史の真実を後代の青少年に伝える義務があり、彼らの心に刻んで永遠に忘れさせてはならない。このことは彼らを現代の公民として育てる為に避けては通れない道であるのだ。もし純真無垢な子供が丸呑みしているものが、事もあろうに味の変えられた、(故意にしろ無意識にしろ)でっち上げの丸薬だったら・・・その偏見は彼に一生付きまとい、そのために正道から外れてしまうようなこともありえるのだ。


 今、我々は自分の歴史教科書の問題を正視するときである。これからいくつかの具体的な歴史事件を挙げて論じてみよう。




円明園の火災は避けられないものだったのか?


 円明園の火災はイギリス・フランスの侵攻軍が犯した許しがたい罪業である。しかしその事件は何故起ったのか?140年以上が過ぎた今、我々は冷静に双方の応対の得失を考察するべきであり、そこから各国人民のより良い共存のための教訓を得なくてはならない。この一件は“第二次アヘン戦争”の報いの一つである。人民教育出版社歴史室編著の《中国歴史》第三冊は、九年間の義務教育の内三年制初級中学においてあまねく採用されている教科書である。この中では下記のようにこの戦争について記述されている。


   一.戦争の原因について
 この教科書では“1856年3月、フランスのキリスト教神父:馬頼(Auguste Chapdelaine)が広西西林地区に潜入し悪事を働いた為、現地の官吏によって処刑された。これが所謂‘馬神父事件’である。その後フランスはこの事件を口実に、イギリスと共に侵略戦争を発動した。同年10月、広州水軍は中国商船‘アロー号’の船上で海賊と船乗りを逮捕した。イギリス領事は、『‘アロー号’はイギリス国籍の船であるため中国側は逮捕した水夫を解放し、イギリス側に謝罪するように』と言い張り、いわれのない言いがかりをつけた。両広総督の叶名〓は事態の拡大を恐れて逮捕した水夫を解放したが、謝罪は拒否した。これが所謂‘アロー号事件’である。1856年10月イギリス側が戦端を開き、広州を砲撃、第二次アヘン戦争が始まった”とある。


ここで言う、アロー号事件の大部分が歴史的事実に合致する。しかしフランス国籍キリスト教神父馬頼の殺害に至る経緯は、今に至るまで謎のままである。馬氏は1856年2月29日広西西林代理知県;張鳴鳳によって殺害された。フランス公使から問い合わせが来る段に至っても張鳴鳳はあくまで否認し、そのような事件自体が無かったと言い張った。広西按察使と両広総督は1858年の初めまでそれを真実と信じて疑わず、そのままをフランス公使に報告し、朝廷に上奏していた。


 1844年10月中国とフランスは《黄埔条約》を締結し、その国際条約によってフランス人は「五口通商章程」で定められた双方の“議定境界内”でのみ、行動を許された。 “フランス人が、もし越境・内地への侵入などの犯罪を犯した場合には中国の官吏は自由に彼を逮捕することが出来る。但し囚人は必ずフランス領事館まで護送しなくてはならない。その際中国の官民はフランス人を殴打・傷害・虐待して逮捕することは許されない。それは両国の和を乱す行為である。”


 馬氏は1842年から西林へ赴いて布教活動を行っていた。《黄埔条約》の締結後も現地を離れず、これは条約に違反する間違った行為であった。しかし彼を死に至らしめたのは明らかに西林地方の官吏であり、このことは フランス人を無傷で領事館へ護送すると言う条約内の義務に悖ることであった。今に至るまで誰も馬氏が死刑に処されるほどの罪状を負っていたことを証明できていない。手続きに沿った正義優先の法学的観点からみれば、明らかに中国側が道理に合わないことをしているのだ。教科書では この件についての基準が不正確である。


 さらに、教科書ではこの戦争の二つの根本的原因については一言も触れていない。一つはイギリス政府が清朝政府に《江寧条約》の規定を忠実に履行するよう要求したこと。その中でも重要なポイントはイギリス官吏と商人の広州市街への出入りを自由にすることであった。西洋人を市街区へ出入りさせることは、今現在考えてみると たいしたことではないかもしれない。しかし当時は「五口通商章程」の その他四港でも規模こそ違えど似たような争いが起こっており、それでも順次解決し 大きな災いは起こらずにいた。ただ広州だけは天地をひっくり返すような騒動を起こし、各地の反入城闘争の先陣を切り、そのトラブルは10数年にも渡って解決を見ることはなく、ついには武力衝突にまで発展した。


 二つ目は《望厦条約》の条項である。“全ての貿易及び税関に関する各条項について 少々の変更は認めるが、基本的には12年後 両国から使節を出して公平に適宜取り決めるものとする”《黄埔条約》では又、以下のように規定している。“もし条項・規約の修正を行いたい場合は・・・満12年後を経て後、中国側に再度 協議を許す” 条項の変更に関する通商条約については本来平常外交業務に属するべきものである。それを清朝政府が一再ならず引き伸ばしたため、双方の矛盾が深まったのである。


 この戦争を引き起こした原因について、当時の有識者は顧みる点があるとしている。内情に通じた薛福成は沈痛な面持ちでこう語った:“イギリス人の狙いは先ず市街地に入城して大官と通じ、その事実で両者間の距離を縮めて、商民を御そうということであった。そこで広東・広西の庶民と再三のトラブルが引き起こされ、叶相(叶名〓)が再三失策を講じたことで、手を下すことなく広東・広西の市街地を手に入れた・・・・・・中国が下手に出るほど、難癖を付けるフランス・ロシア・アメリカの三国は船団を北上させ、大沽へ上陸し、我が国の海運を妨げ、条約を締結して戻った。・・・・・・広東広西の民は政府の和平交渉に対する憤りに激し、万衆が一致団結してその入城を絶対に許さずと唱え、再三の要求にも応えず、20年にわたって押し問答を続けた。しかし大沽の失策、天津条約は全て終わってしまったことであり、今考えれば、それらは皆 無意味な行為であった。”晩清の曾国藩李鴻章・馮桂芬・郭嵩[寿+,、、、]なども皆“小嫌を以って大〓を醸すなかれ”と互いに戒めあった。その言葉の中には広州の反入場闘争に端を発する無惨な状況から得た教訓が含まれている。


 同じく中華人民共和国に属しながら、香港の中学歴史教科書は 大陸のものに比べて卓越している。この教科書では当該戦争の起因と帰結を4分割して記述している:1)外国人の入城問題。2)相次ぐ条約改正の問題。3)アロー号事件。4)馬頼神父事件。このような記述は歴史の事実と符合しており、中国の国家利益を損なうことなく、若い世代に冷静に歴史問題を分析させる機会を与えるものである。この教科書の編集者は歴史学者として及第点を取ったと言えるだろう。何故これら自国の同業者に学ぼうとしないのか 理解に苦しむ。




   二.戦争の過程について
 1858年、大沽を占領したイギリス・フランス侵略軍は兵を天津の城下まで進め、イギリス・フランス・ロシア・アメリカなどの国が前後して清政府に《天津条約》に調印するよう迫った。失った権利は少なくはなかったが、問題は一応の解決を見た。双方は翌年北京で批准書を交換することを取り決め、法定の手続きを完了させた。双方が協議の通りに処理を進めれば、円明園の焼き討ちというイギリス・フランス連合軍の二度目の攻撃は回避できたであろう。
 
 
 しかし誰も予想だにしなかったことに 条約批准実務のまさしく最後の一歩になって別の問題が発生し、大きな災いを巻き起こすことになった。教科書には以下のように記述されている:“1859年イギリス公使とフランス公使がそれぞれ一艦隊をもって北上し大沽港へ入港。北京に入って批准書を交換するためであった。清政府は各国代表は北塘から上陸し、天津を経て北京に入るよう指定した。同時に各艦隊の武装兵は上陸しないよう求めた。しかし両国の行使は武力を恃みに要求を無視し、大沽港から白河をさかのぼって北京へ入城しようとした。彼らは横暴にも艦隊を率いて大沽港へ入港。大沽港の守備兵は侵入者を撃退しようと戦端を開いた。砲弾は正確に侵略軍の軍艦へ落ち、四艘を沈め六艘を破壊し、残りの三艘は白旗を掲げて逃げ去った。砲撃戦が繰り広げられると同時に 900人の侵略軍兵士が上陸を図ったが、これも撃退された。侵略軍の死傷者は数百人に上った。大沽一体の人民は戦火の中を危険を冒して戦士に食料を届け、崇高な愛国の情熱を表した。”編者の筆の下で、この一連の愛国英雄行進曲は兵士や一般人を主役として描かれている。しかしほんの少し考えただけで、多くの疑問点が浮かんでくる。


 結論から言えば、この一幕は明らかに失策である。翌年 イギリス・フランス連合軍は再び侵攻し、結果として 北京は占領され円明園が焼き討ちされた。そして引き続き《北京条約》の調印。元の《天津条約》の条文が引き続き有効とされるだけでなく、その上更に新たな損失を招いた:イギリス・フランスに、それぞれ400万両・200万両だった賠償金が、一律800万両にまで値を吊り上げられた。九龍司の割譲・フランス国籍の宣教師に中国国内での布教の自由を与え“宣教師が各省で土地を借用または購入し、建物を立てる自由を与える”などについては以後連綿と続く「教案*1」などの災いの禍根を残した形となる。もしあの時攻撃していなければ・・・その方が中国にとっては良かったのではないだろうか?


 この教科書を読んだ人間は理性的に問いかけるべきだ;公使の北京入りのルートは、本当にそれほど重要な問題なのか?一戦を交えることも辞さないほどの大問題なのか?双方の意見の食い違いについて真剣に交渉した結果なのか?本当に兵士たちが自主的に砲撃を開始したのか?それとも上からの命令あっての事だったのか?もし前者ならば、この事は軍規に触れ なおかつ重大な結果を引き起こした大きな間違いであり、それが愛国の英雄の義挙と言えるだろうか?もし後者ならば、どこからどのような命令があってその行為に及んだのか?


 繰り返し歴史を見直してみると、これは全く愛国の英雄の壮挙などではなく、愚昧な咸豊皇帝と僧格林沁親王が犯した大罪であった。しかもきっかけは教科書に記されているような「どのルートを通って北京に入るか」ではなかった。イギリス・フランスの使者は大きく迂回をして天津に入るよう要求されていたのである。当時僧王陣営の郭嵩[寿+,、、、]も日記に以下のような記録を残している:1859年4月10日“怡親王がおいでになり・・・・・・内密に命令を下された:もし夷人が取り決めどおりに入港しなければ、秘密裏にこれを攻撃せよ。但し官兵がやったとは言わずに、土地のものがやったということにせよ・・と。私は:凡そ物事は名分が正当であれば道理が通るものあり、ゆっくりと協議されるべきです。怡邸で判っていないのはおかしなことです。僧邸で再三の協議を重ね北塘から上陸し回り道をして天津へ至る道を要望しました・・・・再三の討論を重ねて最終的な決定を下し、添付の通り奏上した。”


 《北京条約》締結後、彼は更に具体的に当時の状況を記述している;“夷禍は僧格林沁親王側が引き起こしたものと言える。昨年の戦いでは前後して発布された詔が10余。命令内容は〓江沙外まで迎えに出て説得せよと言うものだった。夷船が内河に入って九日後、僧側から送られた使節は説得が目的ではなかった。衣冠を脱いで土地のものであると自称し、みすぼらしく装ってこれを攻撃したのである。イト陳の再四の諌言にも関わらず、説得の通じないことを懼れて 力による解決を再び上書した。” 曾国藩は彼の幕僚にこうこぼしたことがある:“咸豊九年、西洋人が条約の調印のためにやってきたが、僧忠親王が彼らを誘い出してその船を沈め、全国で快哉を叫んだ。十年、西洋人は再び訪れた時には・・・首都は陥落し、国家を喪失した。思うに僧側のこの失策は死を以って天下の人民に詫びるのが相当であろうな。”彼らが言う状況については当時現地に居たイギリス公使:ト魯斯の報告にその記述が見える。イギリス・フランスの軍艦は6月16日には既に到着していたが、25日の早朝になってやっと出迎えた直隷総督 恒福の覚書を受け取った。しかしその時既に軍事行動は開始されていた。これらの資料から帰納的に導き出した結論は以下の通りである:

  1. 咸豊皇帝はある一定の条件を満たせば 官兵に郷勇を装わせて“こっそり”と洋鬼子を襲撃させることを決定した。同時に 10余にも上る詔を下し、西洋人を“説得する”事で、先礼後兵の形を成立させることを望んだ。
  2. 僧格林沁は忠実に“こっそりと襲撃する”詔意を実行したが、先ず説得するという点は実行しなかった(臣下の大臣の説得には 耳も貸さなかった)。その上西洋人に北塘からの上陸及び天津までの回り道を要請した首謀者でもあった。
  3. この国家権力の喪失という国辱、その災難は、曾国藩・郭嵩[寿+,、、、]・呉汝綸を代表とする(李鴻章・馮桂芬なども含む)比較的冷静な官僚や有力地主などによって 過去に厳重に批評され 皮肉られている。


 私が驚かされるのは:時を経て20世紀90年代になっても、我々の教科書には未だ咸豊帝と僧格林沁の立場で曲が歌われていることである。その 史料的な進歩はただ“郷勇”を“士兵”書き換えただけである。


 ここまで述べただけで、我々は『円明園の焼き討ちを逃れるすべは無かったとは言えない』と結論付けることができる。気勢激しく要求を突きつける強敵に対して、あまりにも弱勢な大清帝国であったが、その一方で 現有条約の厳格な執行によって正面衝突を避け、時間を稼いで、自国の改革と発展を優先するという聡明な選択肢があったのである。しかし当時の政府と地方の有力者は極端な感情に支配され、小事において条約に違反する愚行を犯し、結果として大禍をまねいた。もし清政府の政策決定層と地方官吏があれほど愚昧でなければ、この禍は避けることが出来たかも知れないのだ。しかし朝野上下の知識水準や専制的な政策決定プロセスは歴史の中で積み重なった澱であり、一朝一夕に変革できるものではなかった。彼らの侵略の本性が 彼ら自身が文明の師となることを阻んだ。つまりこの禍を避けることは非常に難しいことだったと言える

*1:清代末期、キリスト協会と中国人民との衝突によって引き起こされた訴訟事件、または外交事件